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千泉めも

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月17日(土)16時41分45秒
編集済
  世界大百科事典 第2版の解説
せんせん【千泉 Qiān quán】
中国,唐代の史書に突厥可汗の王庭のひとつとしてあらわれる中央アジアのイシク・クル湖西方のオアシス。トルコ語のミン・ブラクming bulaq(千の泉)の意訳。
《大唐西域記》によれば,素葉(現在のトクマク付近)と?邏私(現在のジャンブル付近)の中間に位置するソグド人の住地で,突厥可汗の避暑地(夏営地)であった。現在のビシケク西方約120kmのメルケMerke(イスラム教徒の地理書にいうMīrkī)にあたり,南方のアレクサンドロフスキー山脈(現,キルギススキー山脈)を背景として,泉にめぐまれ,また豊かな草原ともなっている。


 タラス   ジャンブル  千泉(メルケ)   トクマク
    ジャンブルとメルケはカザフスタンの鉄道駅  トクマクはキルギスの駅

  タラスはキルギス
 
 

ヘプバーンのめも

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月17日(土)05時42分12秒
編集済
  オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国で活動した女優。

http://audreyphotoexhibition.jp/

キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn, 1907年5月12日 - 2003年6月29日)は、アメリカ合衆国の女優。


ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。


『暗くなるまで待って』(原題: Wait Until Dark)は、1967年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。

テレンス・ヤング監督作品
1960年代
007 ドクター・ノオ (1962年) 007 ロシアより愛をこめて (1963年)  007 サンダーボール作戦 (1965年)  暗くなるまで待って (1967年)
 

番茄めも

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月16日(金)14時53分11秒
編集済
  櫻桃小丸子    ちびまる子ちゃん 5巻
喜歡的食物    好きな食べもの
漢堡包      ハンバーグ
討厭的食物    きらいな食べもの
番茄       トマト

  ---


やっと「サンダカン八番娼館」が手に入った。
山崎朋子は底辺女性史の研究家と自称する。
底辺で苦労してきた、今も差別の最下層にいる人が、誰だかわからぬ人に
自分のことを話すはずがない。まして男の研究者には絶対できないこと。
彼女はしかし、彼女なりの努力をしたと書いてある。
ムカデの這う腐った畳の上に勧められるままにあがり、その元からゆきさんの作った
食事を二人で一緒に食べて数週間暮らした。(誰にもできることではない)

そういう生活をしてはじめて相手は心を許したのだろう。
この作品が、彼女たちの身の上に同情し、経済力とか権力をもつ者を厳しく批判する
立場で書かれていることと無関係ではないと思う。作者の気持ちは相手に伝わった。

唯一女性でからゆきさんのことを書いた森崎和江さんを福岡県中間市に訪ね
彼女からアドバイスを受け、熊本県水俣から天草下島の牛深までの船に乗って2時間の船旅を
これまた森崎さんが紹介してくれた油絵描きの豊原さんという女性と一緒にする。
船の中でみんなと話が弾むうちに、豊原さんが気を利かして、目につく老婦人や
漁師らしい中年の男に「むかしからゆきさんだった女の人を知りませんか」と聞くと
みな態度がよそよそしくなり黙ってしまう。
こうして天草へ渡る船のうちで早くもからゆきさんの調査はむずかしいことを
思い知らされる。

バスで牛深から亀浦へ向かい、亀浦から崎津へ小さな船で渡り、崎津で昼食のため食堂を見つけ
二人が入ったとき、先客の老婆がいた。それが神様が彼女に与えた唯一のチャンスだった。
そして老婆と連れだって彼女のひどく荒れた家にたどり着き、そこからこの話は始まる。
 

発酵・醸造の疑問50

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月16日(金)07時06分37秒
編集済
  東京農業大学応用生物科学部醸造科学科編:発酵・醸造の疑問50

応用生物というだけあって、理学部の生物でないから
分類もはんぱ 分類学にこだわらない。  それは残念  まあしかたがない。

真核生物 (動物界、植物界、菌界、原生生物界)
    菌界 真菌類つまりカビ、キノコ
       酵母、コウジカビ、青カビ(チーズ、ペニシリン)
        パン酵母、ビール酵母、ワイン酵母、清酒酵母、焼酎酵母
原核生物 (古細菌、真正細菌)
         乳酸菌、納豆菌、根粒菌、大腸菌、結核菌

テキーラ
 メキシコ国のハリスコ州とその周辺で、竜舌蘭(Agave, アガベ)のジュースから
細菌(バクテリア)ザイモモナス・モビリスの働きで造られる醸造酒を蒸溜したもの。
古代アステカからの伝統的な醸造酒であるプルケから造られる蒸留酒。

  細菌(バクテリア):真性細菌


発酵と腐敗 という区分はおなじみ
発酵と醸造 の違いを述べているのは、著者たちの立場だから。

発酵:バクテリアや酵母などの微生物の働きにより、有機酸やアルコール、二酸化炭素などがつくられること。

醸造:発酵を利用することで、酒や味噌、醤油などを製造すること。
 この辞書の説明に追加して
著者は 大豆や米などの原料を微生物の力で「やわらかくて豊かな(醸)」状態に変えて何かを「つくる(造)」ことと説明している。

麹を使う食酢やみりんは醸造食品だが、麹を使わないヨーグルトやチーズは醸造食品ではなく発酵食品だとしている。
  チーズは発酵食品  沖縄の豆腐ようは醸造食品
広い意味の発酵の中に、醸造がある。 まあ我々にはどうでもいいこと。

 

レシピで味わう世界の食文化

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月11日(日)17時23分28秒
編集済
  石毛直道:レシピで味わう世界の食文化  岩波書店  2018

 著者は食文化研究家である。 世界各地をフィールドワークで訪れた。
 そこで食べた料理をより理解するため復元を行った。 要するに仲間との会合で
  思い出しながら復元した料理をみんなで食べて楽しんだ。なかなか好評だった。
  乞われて料理教室をするようになった。プロではなく素人の料理
  でも好評  そのときのメモをもとに本にした。

  1997年 館長となる。忙しくなり、クッキングスクールは自然消滅。

涼拌蕃茄(リャンバンファンチェ)
 1.ボールにトマトソースかトマトケチャップを入れる。
 2.カリフラワーとブロッコリーは小房に分け、さっとゆでる。
   人参は半月切り、キュウリは輪切り、大根はいちょう切り、レモンは半月切りにする。
 3. 2を1に漬け、一晩くらいおいて味をなじませて食べる。


櫻桃小丸子    ちびまる子ちゃん 5巻
喜歡的食物    好きな食べもの
漢堡包      ハンバーグ
討厭的食物    きらいな食べもの
蕃茄       トマト
  日本でも昔は 蕃茄ばんか




人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)?する
《膾(なます)と炙(あぶりにく)とが、だれの口にもうまく感じられるところから》人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る。

いまの中国人は膾を食べない。干した肉でも、かならず煮て食べる。かれらは、わが国(朝鮮)の人が膾を食べるのを見て笑う」
  17世紀初めの朝鮮半島の「芝峯類説 しほうるいせつ」という書物に記されている。

18世紀になると、南部の広東省、福建省でしか魚生(ユィサン)という魚のナマスを食べなくなった。

朝鮮半島では、肉をユク、ナマスをフェというので、牛肉のナマスをユッケという。ユッケ(肉膾)  生の魚介類のナマスを生鮮膾(センソンフェ)という。 釜山で食べた。


ケバブ
 トルコ語でケバブは焼き肉の総称(串は必要ない)
  アラビア語のカバーブに由来する。 ウイグル語ではカワープ(カワップとウイグル人留学生はいう)
  イランではキャバーブ
 日本のシシ・カバブは、トルコ語ではシシュ・ケバブ シシュはトルコ語で串
  ひき肉でつくる肉団子状の料理をコルコ語ではキョフテという。


ゴスラー近くの保養所 Goslar-Hahnenklee

ここでの名所はノルウェー式木製教会であったが、時間の都合で見なかった。

山荘のような落ち着いたホテルに泊まれて、みんなゆったりした気分になった。

夕食は中国人と一緒の席に着いた。
それぞれ好きな物を注文することにした。よほどのものでない限り、フンボルト財団の
予算に入っているので、妥当な値段の物を注文した。

二人の中国人は知ってか知らずか、タルタルステーキを注文した。
はたしてウェイターが持ってきたのは、焼き肉屋にある「ユッケ」
つまり、生の挽肉だったのだ。

一人の中国人は顔色を変えて、すぐ焼いて持ってくるように注文した。
ほどなく、それはハンバーグステーキに変身し、彼の前に出された。
もう一人の中国人は苦笑いをしながら、それでもとうとうそのま食べてしまった。

焼けと言った中国人は年輩で、そのまま食べた中国人は若い中国人だったから、
新しいものに対する柔軟性が若いほうがあるのかと思ったが、
その後いろいろな中国人を知ると、場所により食習慣が違うこともわかってきた。
もしかすると、生のまま食べた中国人は故郷では、それに近い食べ物を体験していた
のかもしれない。

あの中国大陸では、長年の経験から、食中毒にならぬよう、
食べ物は調理して温かくして食べる。生ものが食中毒を起こすことは常識だからだ。


インドネシア料理
 やきめし
  ナシ・ゴレン ナシ:米飯 ゴレン:揚げる ナシ・ゴレン:揚げ飯 実際は炒めてつくる。
   日本語では「焼いた飯」  英語ではフライド・ライス(揚げた飯)
 焼きそばも炒めてつくる。 焼くのではない。 魚を焼くとは違う。
 

つげ義春「二岐渓谷」めも

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月10日(土)17時09分39秒
    つげ義春の「二岐渓谷」
 ガロに掲載されたマニア好みの作品

会津線の湯野上温泉駅から阿賀川の支流の鶴沼川をさかのぼって
さらに鶴沼川の支流の二岐川の二岐渓谷の奥にある二岐温泉
https://www.jalan.net/kankou/spt_07344ab2042063408/

つげ義春は、私の好みではありませんが、福島県の秘境温泉に詳しいのです。
ということで、私が案内された湯野上地域の秘境度がわかっていただけるでしょうか。
 

貸本マンガRETURNS

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月 8日(木)19時38分15秒
編集済
  貸本マンガ史研究会 (著)
  貸本マンガRETURNS     ポプラ社   2006/3


手塚も赤塚も藤子も貸本マンガを書いていたが
ここに紹介されるのは
主に トキワ荘の漫画家たちのような 日の当たる、表向きの漫画家ではなく
アングラ的、反体制的な漫画家が多い。

著者たちの好みか。


赤本マンガ → 貸本マンガ → 雑誌や週刊誌のマンガ
というのが時系列的な流れだろう。

  貸本マンガ  B6(128×182)  つまり B4(257×364)の半分
          A6はA4の半分  A5はA3の半分

つげ義春のマンガが評価されている。 白面夜叉 戦雲のかなた 熊祭りの乙女 暁の銃声 幕末風雲伝(絶望感とニヒリズム)
この後の、つげの作品が発展しなかったのはなぜか。
永島慎二の作品があるところで止まってしまったのと似ているのだろうか。

佐藤まさあきの漫画の反社会性は、彼の生い立ちに求めている。
それはそれで永山則夫の例があるから理解できないこともないのだが
やはり、日の当たる存在ではないだろう。
ことさら評価するのは著者の個人的な好みだろう。(著者も恵まれない生い立ちだった)

人は、他人をだしにして、自己主張する。
批評家が啄木に理想や自分の思い込みをかぶせて自己主張するのと似ている。


怪奇漫画に 水木しげる 楳図かずお を入れているが
無理にまとめることはない。  水木しげるも自分に合わせてホラー要素を減らしている。

怪奇漫画の章を書いている著者は
「悪魔と天使」、崖下の貧しい姉弟と崖上の裕福な姉妹の対立、貧しい姉弟が崖を崩して裕福な姉妹を殺そうとして、崩れた崖で四人とも死んでしまう。
 差別的表現は、水木や楳図の世界とは無縁と書いている。 では、佐藤まさあきはどうなのだろう。白土三平にしても階級と差別はありそうだが。
 佐藤まさあきを書いた二章の著者とは違うから矛盾してもいい?
 (子供マンガは差別をいいたてる必要もないし、ハッピーエンドのほうが無難)

蛇足ながら、この著者はA新聞のコラムを紹介して
「三ツ目のママと四ツ目のパパ」は はたして「筋も波乱にみちた複雑なもの」であっただろうか、
A新聞の記者は作品を読むこともなく記事をかいたのだろう
と批判している。

A新聞は、永島慎二と水島新司を混同した批評記事も書いていたから。 ちゃんと読まないで書く記者
 

湯野上橋メモ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月 6日(火)07時11分31秒
編集済
  湯野上橋   塔のへつり

http://www.yunokami.com/img/osanpo.pdf


おそらく 121号線から 湯野上橋を渡った?
橋の上から 塔のへつり方向を見た?

Ozbel  会津若松・喜多方・湯野上温泉地区での循環バス
http://k0kusaijuo.web.fc2.com/hirota-taxi.html


広田タクシー コース運行バス
 http://london-taxi.jp/busroute.html
 

大江山鬼伝説殺人事件

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月 5日(月)11時22分29秒
編集済
  山村 美紗(1934年8月25日 - 1996年9月5日)は、日本の小説家、推理作家。
弟は政治学者の木村汎、長女は女優の山村紅葉

女優紅葉のあとがき
このシリーズ最後の本

テーマがテーマだけあって
テレビ化までに種々の困難があった。
 協力してくれた葬儀屋、お寺は数少ない協力者

確かに
人の死が殺人事件になるのは葬儀屋にとって具合の悪いことかもしれない。
狩矢警部がいつも出てくる。

崑ちゃんの秋山さんは名配役

黒沢との結婚したいがなかなかできない関係は、キャサリンと似ている。

 

手塚治虫とトキワ荘

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月 4日(日)15時08分41秒
編集済
  中川右介:手塚治虫とトキワ荘  集英社

なかなか詳しい本

これまでの本で、関係者の証言の食い違い、たいていは記憶違いなのだろうが
それらを好意的に解説説明している。
 同じ漫画家でも、視点が違えば自己整理のしかたが違うから、あたかも違う発言をすることもあろう。当時の率直な感想も、のちの体験から、違う整理の仕方も出てくるのではないか。

集英社と小学館が同じ系列会社だとは、この本で知った。
 小学館は学習部門、集英社は娯楽部門
講談社創業者野間清治、小学館創業者相賀(おおが)武夫


光文社は講談社からできたのは知っていたが。
 光文社は戦後まもなく、講談社が事業継続できない場合に備えて、別会社として立ち上げた。


加藤謙一が戦犯扱いをされたのは事実だが、そうなる前に自発的に講談社をやめた。 講談社そもそもがGHQに良い印象を与えるため、旧態人事の一掃をはかって民主的な組織に改めたらしい。その一環として加藤謙一は職を失った。(しかし、2年後には戦犯解除で復帰している)


手塚治虫が、加藤謙一編集長の「少年倶楽部」の「のらくろ」、海野十三(じゅうざ)の空想科学小説などの影響でSFマンガをつくったという指摘は正しい。
 厳密には、加藤謙一は1932年5月号まで関わり、企画室長に栄転 海野十三初登場は1933年5月号「太平洋電撃戦隊」、以後1938年1月号「浮かぶ飛行島」で愛読者増える。


小学5年生の我孫子と藤本が、マンガがきっかけで口をきき仲良くなる。
(まだ手塚の漫画を知らない二人、のらくらなのからマンガを描くようになったのか)

一時、山崎村(のちに合併で朝日町)に疎開した我孫子は終戦後に高岡に戻り藤本と再会。

怪我をして漫画家しか道はないと考えた藤本は漫画を描いて売り込む。我孫子は新聞社の仕事も楽しいが説得され、二人上京してプロ漫画家をめざす。

我孫子は交渉係、トキワ荘に出入りし、手塚の手伝いをするうち部屋を譲られる。
藤子不二雄たちは東京の住まいをトキワ荘に移すことになる。

我孫子は「ジャングル大帝」最終回を手伝う。 (1954年2月) 我孫子は手塚のアシスタント第一号

藤子不二雄 赤塚不二夫
彼らの名前は、手塚が多くの作品を出していた赤本の会社 不二書房からきているという説がある。
 しかし手塚は不二書房に対して怒っている。
 「ぼくはマンガ家」 Fという出版社(不二書房)が、ぼくの初期の大半の作品を出していた。
  この出版社の主人が、突如漫画の出版を止め、ぼくになんの連絡もないまま、ある日とつぜん、ぼくの原稿全部を無断で東京のT書房という出版社にたたき売ってしまった。
  T出版社(竹内書房)は、版も粗悪なものに変えて再版した。とかでもないゾッキ本が、市場に出回ったと手塚の怒り最高。

 (この本の著者は、おそらく赤本ブームのあと貸本ブームへと変化があったのに、不二書房は時代に乗り遅れ、経営困難のせいで、手塚作品の版を竹内書房に渡したのだろうと推定している)
  著作権という概念は、出版界にはまだ疎かった。

手塚は東光堂から「罪と罰」を出したが(もとは不二書房から出る予定)、東光堂も1960年に廃業
 それから手塚作品は鈴木出版、あかしや書房などの貸本屋向けの版元から出す。
  (手塚も講談社や光文社などの雑誌、単行本という二つの媒体 新刊書店と貸本屋という二つのルートを通じて、手塚作品は子供たちの手元に届いた)


赤塚のアシスタントをした古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎、北見けんいちは満州からの引き揚げ者(なんと山内ジョージも満州帰り)

つげ義春はトキワ荘に手塚を訪ねて、絵をもっと丁寧に描くようアドバイスを受けている。

つげ義春は赤塚不二夫は漫画のサークルで知り合った。
赤塚と横田徳男は、つげ義春の紹介で若木書店に作品を売り込みに行ったが、採用されたのは横田だけ。
つげから教えられたもう一社(曙出版)へ行ったら、社長は新潟県人だったので採用してくれた。

赤塚と横田はそれぞれ勤めていた工場を辞め、同居する。(すごい 大胆)
 赤塚と横田は西荒川の五畳半の部屋に住む。
  (2月に横山孝雄がやってきた。赤塚と横山は手塚を訪ね、横山の鶴書房就職を頼む。算盤のできない横山は雇ってもらえず)

(1956年)4月11日に、石森が上京 トキワ荘に部屋がなく そこから徒歩10分の西落合の下宿に入る。
15日のトキワ荘の会合に出席、その前後に「少女クラブ」別冊付録の仕事もらう。
数日後に食中毒で倒れ、たまたま訪れた赤塚に発見され、赤塚の部屋に連れていかれ、そこで「まだらのひも」完成(5月1日)
5月2日に講談社に原稿を届け、4日には寺田と我孫子の骨折りでトキワ荘入居 やれやれ

1955年当時
 手塚治虫(1928~) 27歳
 寺田ヒロオ(1931~) 24歳
 鈴木伸一(1933~) 22歳
 藤本弘(1933~) 22歳
 我孫子素雄(1934~) 21歳
 森安なおや(1934~) 21歳
 永田竹丸(1934~) 21歳
 赤塚不二夫(1935~) 20歳
 つのだじろう(1936~) 19歳
 横田徳男(1936~) 19歳
 長谷邦夫(1937~) 18歳
 横山孝雄(1937~) 18歳
 石森章太郎(1938~) 17歳


トキワ荘2階見取り図無1953~1958
 はとても良い

23  19     20          21  22
     水野英子   鈴木+森安+横田        寺田ヒロオ
      (1958)  (1955-56) 1956 (1958-61)      (1953-57)

18  17     16      15    14
     石森章太郎  赤塚不二夫   藤本    我孫子
            (1956-61)    (1956-61)       (1955-61)   (1954-61)
                                          *1954 藤子不二雄同居


寺田は、新漫画党に新メンバーを入れるには、全員の合意を得るとした。
トキワ荘に入れるにも、寺田が提案し、藤子不二雄が認めてから入られたらしい。

寺田ヒロオ
「有名になった漫画家たちが書くとトキワ荘は楽しくて珍事件ばかり起こったような感じですが、当時の住人には、世に受け入れられるかどうかもわからない不安と焦りの憂鬱な日々の方が多かったと思います」


1959年、『少年サンデー』(小学館)と『少年マガジン』(講談社)が創刊
手塚は、『少年サンデー』創刊号に『スリル博士』を連載、『少年マガジン』には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている。
同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。
 手塚は(自分の本で)劇画ブームでノイローゼとなって、結婚したほうが精神的に安定すると説得され結婚した。
しかし、劇画でノイローゼとなったのだろうか。 むしろ横山光輝など若手の漫画家たちの台頭が当面の原因ではないか。 敵は劇画としたほうが説明が楽?
  1959年、辰巳ヨシヒロが中心となり「関西漫画家同人」の所属の石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、そしてさいとう・たかをら7人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。

この本では単にノイローゼとしか書いていない。 劇画まのせいとは書いていない。 さすが


手塚、藤子は「少年サンデー」だけ
赤塚は「おそ松くん」(少年サンデー)と「天才バカボン」(少年マガジン)

赤塚は1961年10月に結婚し、トキワ荘時代は終わる。
藤子不二雄たちも10月にトキワ荘を出る。
石森も8月24日世界旅行に旅立つ。


COM 1969年10月号~70年9月号「トキワ荘物語」


石森章太郎の本でも、自分自身の記憶違いがある。
手塚の本でも、赤塚の本でも、自分で書いても客観的に日にちのズレとかがある。
 本人の書やインタビューでの発言でも記憶違いがあり、また読者サービス精神が根底にある。
ということを調べながら書いた、この本  この本でも細かい点で訂正すべきことがあるだろう。(完全に正しい本はない)


1989年2月9日  手塚治虫の死 60歳
1990年6月23日 藤本、我孫子、赤塚、石森、鈴木、つのだ  寺田宅に集まる
1992年9月24日 寺田ヒロオの死 61歳
1996年9月23日 藤本弘の死 62歳
1998年1月28日 石ノ森章太郎の死  60歳
2002年4月 赤塚不二夫 脳内出血 2008年8月2日 死亡 72歳
 

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