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菊田一夫

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月18日(火)05時25分37秒
編集済
  人間の記録111  菊田一夫 芝居つくり四十年  日本図書センター  1999


昭和20年12月2日
 NHKの仕事に出かける途中、田園調布駅のプラットフォームに素裸の垢まみれのまだ十歳にはならない年頃の浮浪児を見る。
 渋谷方面からきた電車に乗っていたのをこの駅で下されたらしい。

「坊や、どこへ帰るんだ」
「どこへも、けえらねえよ」
「お家は何処なの」
「新橋だい」

渋谷行きの電車満員。乗客は厭がったが、私はその子供に回数券の一枚をもたせ私も乗った。
子供は電車に乗りたくて地下鉄の新橋駅ホームにまぎれこみ、渋谷まで遊びにきて、さてその混雑の中を迷って,東横線に乗り、田園調布で車掌につまみおろされたのであった。

新橋で下車。地上に出る。人間の群がゴマ粒をぶちまけたように押し合いへし合っている新橋の闇市街。
「此処のあたりなんだろう、お家は...」
子供は何も言わずに風のように走り去った。

私はガードに沿って第一ホテルの前へむかった。
そのあたりのガード下、ドラム缶と板ッきれと藁むしろで囲った中に、いずれも垢にまみれた浮浪児、浮浪児、浮浪児。

十二、三歳くらいの浮浪児がそれよりも小さい七、八歳の浮浪児を抱いて紙屑車の紙屑の中に眠っている。
兄と弟なのであろうか。

私は自分の幼い頃を思い出した。戦争がなかったから、私は着物を着ていただけである。
年季奉公先の番頭に頭を殴られ,腹を立ててくらいついていったら他の番頭にまで蹴とばされた。
何ンや台湾の生蕃(せいばん)の子が生意気に...と、生蕃の子であってもかまわないけれど,私は日本人の子だ。悲しくてふくれたら、また頭をぶたれた。そのときの私は十一歳。

ガード下の浮浪児、ゴミ箱の中の浮浪児、土管の中の浮浪児、幼い私がそこにいるような気がした。


昭和21年3月28日
 上野駅地下道に浮浪児のくらしを見にゆく。
薄暗い電灯に照らされて水溜り、人ぷん、食べ残しの弁当を持ってきたらしい残骸。
その他のすべての隙間はぼろ屑の塊りのような浮浪者と浮浪児によって埋めつくされている。
動かないで光っているのが水溜りと人ぷんで、もごもごと動くのが浮浪児である。

浮浪児たちに取り囲まれ襲われそうになる菊田は、とっさに機先を制して声をかけた。
「お前等、どこの身内の者だ」
(戦災孤児たちは,近くのやくざの息がかかり、やくざたちに必要なときだけこき使われていた)
(菊田は浅草の経験から、彼等がもしも何処そこの一家の者だ、と答えたら、菊田はいつも、その一家の親分か、兄貴株の名を持ち出し、その人とは義兄弟なんだが、と、相手を圧倒するのだった。もちろん、その持ち出した親分の名、兄貴株の名、その本人と知り合いでなければできない話である)

孤児たちのなかの一番年かさなのが、ませた口調でいった。
「お見それしました」

「君たちは幸福だね。なぜならお父さんやお母さんが早くに死んだからだよ」
孤児たちはけげんな顔で私を見た。

「いいかね。僕も孤児だよ。君たちのようにお父さんやお母さんが死んだのじゃない。僕のは捨てられて孤児になったのだ。
だけと、親がいないことに於いては同じじゃないか。
...いいかね、人間はね、年寄りのほうが先に死ぬんだが、そうしたら親のほうが先に死ぬに決まっている。
親が長いこと生きていれば、どうしたっていつまでも親に頼るから、親が死んだときに困る。
だけど親が早くに死ねば、子供には独立の気持ちが芽生える。早くから独り立ちの訓練ができる。
そうだろ。もう、これ以上親は死にっこないんだから。いつになったって困らないだろう。
だからみんなは却ってしあせわせなんだ。僕は生まれて四月目にほんとうの親から捨てられて他人の家に貰われた。
だけど、その家のお父さんが七ツの時に死に、十一のときにお母さんとも別れて、小僧になった。
その頃に独立の稽古をしたから、いまはちっとも困らないよ...、なあ、悄(しょ)げないで、しっかりやれよな」

孤児たちには何の反応も起こらなかった。次の瞬間、十歳くらいの子が、いきなり私の腕に噛みついてきた。
痛いという叫びをあげる暇もなく、ささらをこするような声で、その孤児はうおんおんと泣き出した。
その子供は、つねに頭の何処かで,死んだ親のことを思っていたのである。

他の子供たちは、ただ黙って私の傍から離れていってしまった。
その夕ぐれ、地下道を出て上野の街を歩きながら,私は涙がこぼれて、どうしようもなかった。
 
 

菊田一夫の仕事

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月17日(月)20時24分59秒
  井上理恵:菊田一夫の仕事  社会評論社   2011

「東京哀詩」   菊田が依頼されて、千秋実の薔薇座に書いた戯曲

「有楽町あたりのガード下のパンパンと与太者が、浮浪児・戦災孤児たちと暮らし、育てていこうとする話で、与太者とパンパンにそんなことがうまくできるわけのないところが哀詩」なのだと千秋は告げる。

パンパンの美佐枝は浮浪児たちを姉のごとく、母のごとく面倒をみる。
彼女も孤児であった。みなが屋根のある家に住みたいと考えている。

桂太は美佐枝と夫婦になって、孤児たちと一緒に暮らすことを夢見る。
しかし、組同士の縄張り争いに都合よく使われる。

筋は単純だが浮浪児の現実が赤裸々に表現されているから、占領軍の浮浪児対策のメガネにかない、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」へと発展的に移行する。
 

史伝新選組

 投稿者:manager  投稿日:2018年 9月15日(土)08時10分51秒
  三好徹:史伝新選組

近藤勇・土方歳三の新選組に好意的

多くの資料を目に通しているから、わりあい客観的

明治初期の記者福地桜痴も新選組には好意的だった。

新選組から狙われた木戸 孝允  彼は長州藩の過激な連中と一緒に居るとあぶないと思い、避けていたふしがある。 池田屋で無事だったのは彼の注意深さと幕府との仲のよさにあったかもしれない。(幕府の知人から情報が流された?)

西洋医学のパイオニア松本順(良順)も近藤たちに攘夷思想の欠点を教え、素直に西洋医学を認めた近藤たちに親しみを感ずる。 彼は最後まで新選組びいきだった。

大政奉還 日本の内乱を避け、逃げまくった徳川慶喜
彼は歴史的にはそれなりの評価があったのだが、旗本や新選組や会津藩からすれば、裏切り者だったろう。
 その対極にいたのは土方歳三だ。

近藤は銃で肩をうちぬかれ、骨の損傷で、剣はつかえなくなった。
そのことで近藤は武士として生きる気力を失った。
 

おかあさん疲れたよ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月13日(木)11時54分2秒
編集済
  田辺聖子:おかあさん疲れたよ

インテリはみな、アメリカ貶(けな)してソ連ほめとったけど、庶民はそのうち、
だんだん、釈然とせんものをソ連や共産主義に感じ出したんと(ちゃ)うかなあ。
共産主義はあらゆる保守的権威をぶっつぶして人民を守ってくれるもんや、
と素直に信じていたのに、あのレーニン廟、なあ、....
おれはソ連へ旅行したことはないから見てへんねんけど、
行った人の話ではガラスケースの中にレーニンのミイラがある、いうやないか。
唯物論者のくせに、何ンでそんなこと、せんならへん。
怪(け)っ体(たい)やな、思たぜ。

世界初の人工衛星を打ち上げたときもソ連はえらいなあ、と無邪気に感心したけど、
そのあとで、アメリカも同じことやって、失敗すると,失敗したと発表する。
ソ連は失敗すると黙ってる。これも怪っ体なクニや、思たなあ。
マルクスやレーニンの理論は貧乏人や弱者には理想やったはずやが、
だんだん怪っ体な方向へきよってなあ...
  (ミモザの手紙)


著者の昭和時代の報告

学徒出陣の次世代  空襲  「なよたけ会」として出てくる独身女性たちの会
 

だから山谷はやめられねえ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月12日(水)12時58分34秒
  塚本努:だから山谷はやめられねえ

飯場の体験後に再び横浜の寿町を訪れた著者

今ごろ、飯場の男たちは地下でスコップを振り回している。
昼間から酒を飲んでたむろする男たちや、路上に座り込んでいる男を見ると、飯場の男たちがドヤ街の男たちを決して同類とは考えていないばかりか、侮蔑してしまう理由がわかる。
 

死ぬまでに信じておきたいアミダ様の世界

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月31日(金)17時38分45秒
編集済
  吉田明:死ぬまでに信じておきたいアミダ様の世界

北山の本誓寺

法蔵菩薩はアミダ様の修行時代の名前


「お前は、お前のままでいい」と私のすべてを受け入れて下さったのはアミダ様だけだった。ずっと。

私の苦しみは私を知らないところに原因がある。

さあ アミダ様にこの苦しみを取って下さいとお願いしよう。

私の罪は軽く他人の罪は重く見える。アミダ様はどちらの罪も平等に見ている。


「私はどこにでもいるから安心して」と言うのが南無阿弥陀仏の心

すべての道は浄土に通ず。

見上げればここに浄土。

一人いても二人。 その一人はアミダさんという宗教心。 (いつもアミダさんがそばにいる)
 

キリシタン史の謎を歩く

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月28日(火)12時59分54秒
編集済
  森禮子:キリシタン史の謎を歩く  2005.11


著者は思い出す。
昭和26,7年頃、若松の火野葦平邸で催された、九州在住の文学者やジャーナリスト
を集めての新年会で
盲目の宮崎康平氏が、和服の腰に両手をあて、「島原の子守唄」を歌うのを。

元歌は口之津あたりに伝わる民謡だそうだが、鬼池の九助どんとは、
人買いの九助氏のこと。事実は天草の鬼池の者ではなく、
島原人だそうだが、まあ余所(よそ)者にしておきたいところだろう。
やがて売られる運命の子守娘がそれとも知らず、わざとおどけてみせるふうな歌詞と
裏腹に陰々滅々としたメロディから,貧困ゆえに売られて、からゆきさんに
なるしかなかった島原半島の娘たちの悲惨な歴史が伝わってくる。
それがたとえ過去のことであっても,悲しく暗い土地のイメージがなんとなく先立つ。


「クタミ地方というのは、この辺りです」

朽網(くたみ)地方は、山また山の肥後街道を旅する宣教師たちにとってオアシスとも言うべき土地で、フロイスの日本史をはじめ、イエズス会の日本年報などにしばしば、朽網の名がでている。

が、外国史料で人知れず骨を折るのは、この地名。その道の大家である訳者は,素人の読者ごときは相手にせずとばかり、地名に註をして下さらない。

ところが最近は行政上の都合で一方的に地名が変えられることが多いから、地図をひろげて拡大鏡を片手にノミ取り眼で探しても、いっこうに見当たらない。

晩学のうえに独学の哀しさで訊ねる人もなく、天を仰いで長嘆息することいくたび。

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《楚の項羽が漢の高祖に敗れて、垓下(がいか)で包囲されたとき、夜更けに四面の漢軍が盛んに楚の歌をうたうのを聞き、楚の民がすでに漢に降伏したと思い絶望したという、「史記」項羽本紀の故事から》敵に囲まれて孤立し、助けがないこと。周囲の者が反対者ばかりであること。

蒙 恬(もう てん、拼音:Méng Tián、? - 紀元前210年)は、中国の秦の将軍

その後の紀元前215年には30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した。これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった(扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる)。

しかし紀元前210年、始皇帝が死ぬと胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの権力を護ろうと画策した。趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。蒙恬はなおも抵抗したものの即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺した

蒙恬は自殺する際に「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である。」と言って毒を仰って自殺した


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  秋葉原 あきばはら あきはばら

1870年1月(明治2年12月)の大火を受けてできた火除地(空地)に、明治天皇の勅命で1870年(明治3年)10月に宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して創建した「鎮火社」が、火防(ひぶせ)の神・秋葉大権現(あきはだいごんげん)として人々が「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、秋葉原の地名が誕生した。


当初秋葉原はこの空地に相当する神田花岡町域のみを指していたが、秋葉原駅が開業し、旅客駅として利用されるにつれ、その指す範囲も拡大して今に至る。

鎮火社は1888年(明治21年)に日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って東京府下谷入町(・東都区松が谷三丁目)に遷宮して、秋葉神社となった。

明治に入り火除地になることで「あきはっぱら/あきばっぱら(秋葉ツ原)」「あきはのはら/あきばのはら(秋葉ノ原/秋葉の原)」「あきはがはら/あきばがはら(秋葉ケ原/秋葉ガ原)」などと呼ばれ始め、呼称は統一されていなかった。書き方に関しては、漢字表記のカナ部分を小文字化したものや、読みは「あきばのはら」等だが書きは「秋葉原」とカナ部分を省略したものもある。

当地区の呼称が「あきはばら」として定着するのは、鉄道駅の開設以降とするのが定説である[6]。後に地名の読み自体も「あきはばら」となる。なお、1890年(明治23年)に開業した時点では「秋葉原駅(あきはのはらえき、英語: Akihanohara Station)」であり[7][8]、旅客は扱わない貨物専用駅だった。駅の呼称としては「あきはのはら」から「あきははら」に変化した後、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された[9]。

現在は日常会話やメディア等で広く「あきば」という略称が使われ定着している。

なお、地名の由来とされる秋葉大権現発祥の地、静岡県浜松市天竜区春野町にある秋葉山本宮秋葉神社は「秋葉」を「あきは」と読む。
 

日々是好日にちにちこれこうじつ

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月22日(水)17時07分0秒
編集済
  大原健士郎:日々是好日にちにちこれこうじつ

「あるがまま」とは
気分(症状)はいじらずに、あるがままに受け入れて、やるべきことを目的本位・行動本位に実行すること。

「泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う、それがあるがままだろう...」
というのは子どもの自然体であって、その状況に即応した大人の自然体ではない。


「日々是好日」とは、毎日毎日が好い日だということではない。
毎日を好い日にしようという強い意志を包含した言葉である。

仕事・勉強で充実した日が送れれば好い日とし、そうでない日は悪い日と規定すれば
自分の努力によって毎日を好い日にすることができる。



森田 正馬(もりた まさたけ、1874年1月18日 - 1938年4月12日)
 一人息子の正一郎は20歳で亡くなる。 1930.9.11
 その5年後に妻の久亥(ひさい)も急逝   1935.10.21
 

大人になると、なぜ1年が短くなるのか?

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月21日(火)13時55分57秒
編集済
  一川誠・池上彰:大人になると、なぜ1年が短くなるのか?


大人になると代謝が下がる。 代謝が下がると,それに対応して、心理的な時計もゆっくり進む。
だからそれに比べて物理的な時計が速く感じてしまう。

子どものときは学校でも色々な行事があり、体験することも目新しいことばかり。
そうなると時間は長く感じる。

●10歳の子どもにとっての1年というのは、人生における10分の1で
 50歳における1年は,人生における50分の1だ。
 50分の1より、子どもの10分の1の方が長い。 子どものほうが時間のたつのが長い。
  この説は100年前から言われているが信憑性はない。


☆時間を充実させたいのなら、特別なイベントを増やそう。
  色々なことを体験すれば,充実時間がふえる。

☆人生には刺激というスパイスを
  なるべく体験したことのないことを日常生活に取り入れよう。
  刺激があるからこそ、安楽の心地よさも引き立つ。

☆退屈な時間を過ごすときは、時計を見るのを我慢する。
  時計を何度も見ると、時間はなかなか進まないと感じるものだ。

☆空間の広さも時間の流れを左右する。
  広い空間ほど時間はゆっくりと流れ、狭い場所では速くすぎるように感じられる。

☆時間管理が上手になりたければ謙虚になれ
  時間にルーズな人は、「自分ならこのくらいの時間で間に合うはず」と自己の能力に過信しているから。
  上手な時間管理をしたければ,自分を過小評価すること。
    思いがけぬハプニングもあるのだから、時間に余裕をもって行動しよう。



♪   ♪   ♪

たとえば、試験で時間がどんどんすぎていく体験をしたことがないだろうか。

することが多く、楽しい期待したことが多いと、時間は速くすぎていく。

小学生でも,テストで、時間が早く過ぎていくと感じたことはないだろうか。

年令に関係なく、個々人の状況によって、時間が速くすぎていくと感じる場合と、そうでない場合があるのだろう。

一般に,子どもはするべきことが少なく、体験も少ないから,楽しい期待したことも大人よりは少ないので、忙しいと感じることはあまりなく、時間もゆっくりすぎていくのではないだろうか。

これに対して大人のほうはするべきことは多く,それなのに持ち時間は少なめで、もっと時間があったらと思いながら時間が早く過ぎていくと感じるのではないだろうか。

やはり重要なイベントの数が多いか少ないかというのは,時間経過を感ずる大きなファクターになると思う。
 

女の名前

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月19日(日)18時14分15秒
編集済
  小野寺苓:女の名前

(むかし産婆をしていた母が亡くなったときに,突然訪問に来た父と息子。 この子が生まれたとき産婆さんの世話になったのに礼金を払えず、この息子が結婚する時、ようやくお金を包んできた)

母は継子五人と父との間に生まれた自分の子二人を平等に育て終えた。産婆の仕事をした母にしてみれば、この世に生まれた生は等しく平等なのである。

喧噪な今の世は、ボランティアをたたえ、なかには自ら善行を誇示したい者もいる。

善いおこないは静かにするがいい。 美しい行為は、けっして光をあてられ褒めそやされることを期待してはいまい。

母の死の朝の出来事は、どんなに多くの言葉よりも確実な教えを伝えてくれたのである。



生きている間じゅう、母に威張り散らし、子どもの私たちの目には暴君としか映らなかった父はすっかり気弱になってしまっていた。
母の骨をいつまでも仏壇に飾り、早く土に還すように勧めても耳を貸さなかった。父は母を離したくなかったのである。

「そんなに母さんをそばに置きたいのなら、生きているうちにもっと母さんを可愛がればよかったのに...」
と私は言い、父の母に対するワンマンぶりも愛情表現だったのかなと気がつくのであった。



(著者が以前に発表した詩が盗作されていた。 倒錯した女は病気だと新聞社の説明があった。病になって気の毒な盗作女 そう著者は思っていたのだが)

ところが、病気だという女はしばしばマスコミに登場してきた。
大柄な体躯の女性の笑い顔には、著者の想像した病弱な悲しい妻のイメージは微塵もなかった、

そのうち、彼女を取り巻く状況とマスコミとがひどく近い関係にあることを著者は知る。

華々しく素顔を出した人。いかなる病気か詮索はしまい。しかし、マスコミが育てた目立ちたがり屋という新しい病気がこの世に蔓延し、虚偽の生き方をも増長させていることをマスコミは知ってもらいたい。



新幹線で隣に座った若い女の子のウォークマンのシャカシャカという音
そして女の子は眠り出した。
シャカシャカとグーグーにたまりかねて、指定料金を払って、指定席に移動した著者



公会堂多賀のハヤシライスが好きだという著者 では私も一度食べてみようか。
 

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