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日本人の正体

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月18日(水)13時01分23秒
  養老孟司・テリー伊藤:日本人の正体 宝島社新書

以前に読んだことがある?  養老先生の講演をずっと苦虫をかんだような顔で聞いているおじさん  おばさんたちは、きみまろの話を聞いているかのようにケラケラ笑っているのに。


ヨーロッパの新聞なんか見ていると、とにかくあの連中は日本の悪口しか言わないから。半分以上、からかってるわけ。
それはちょうど優等生がイジメにあう構造とよく似ているんだよね。一切、弁解しない優等生が、周りにガチャガチャ言われているのと同じ。
そういう相手に対処するのは何でもないことなんだ。我々が自分の本音をスッと言えば、どこの世界でも通る話だと思う。
それなのに、ヨーロッパの新聞には「日本は朝鮮を植民地にしたからけしからん」とかって書いているわけ。冗談じゃないよ。
  おまえらだって、やってるじゃないか。
どこの国が、かつての日本のように植民地に国家予算の40%も投入したところがあるかっていうの。
それ、イギリスに聞いてみろよ。「おまえら、インドを何年統治したか知らないけど、インドにイギリスの国家予算の40%も投入したことがあるか」って。
「おまえら,植民地にまともなインフラ作ったことがあんのか」って聞いたらいい。
   そこはたしかにそうですよね。日本は、それこそ、外地に道路から鉄道から教育制度から戸籍から全部作ったから。

だけど、日本は植民地でけしからんことをしたというのが戦後の教育でしょ。その戦後の教育はアメリカ主導でやったんですからね。
  いまも続いてますよね。
そうですよ。僕は別に反アメリカでも何でもないんですよ。ただ、彼らは平気でデタラメを言う連中だからね。
アメリカ人は真っ赤なウソをつくんですよ。これは彼らと付き合う上で、よく知っていなきゃいけないことです。
だってさ、あの平和憲法をこっちに押しつけておいて、2~3年もしたら「軍隊を作れ」って言ったんだから。
 
 

「一九○五年」の彼ら

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月13日(金)14時01分7秒
編集済
  関川夏央:「一九○五年」の彼ら

島崎藤村(1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)

1905年4月29日 33歳の藤村は小諸から妻と三歳の幼い娘をともなって東京へ帰った。
藤村は「破戒」を書くため東京に来た。すでに200枚分の原稿を書いた。
藤村一家は4月29日夕刻、西大久保の借家に入った。 妻冬子27歳 緑5歳、孝子3歳、縫子1歳
残り原稿300枚を書き上げ刊行するまで、一家の生活費は月30円だけ。

上京して一週間あまり、1905年5月6日 三女縫子が死んだ。10月20日には長男楠雄が生まれたが、年を越えた06年4月7日、次女孝子が死に、6月12日には長女緑も死んだ。
死人はそれぞれ脳膜炎と急性腸カタルであった。しかしいずれも結核性で,栄養不良が彼女たちの死を早めたのである。

上京の年に冬子が夜盲症になったのも、切り詰めすぎた暮らしのせいであった。
冬子はさらに男の子を二人産み、四人目の女の子を産んだ10年8月6日、産褥で死んだ。
妻と子どもたちは藤村の「事業」と「芸術」の犠牲者であった。


    1881年(明治14年) 上京、泰明小学校に通い、
さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、
明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。
在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨、北村季晴らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。
明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。

卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。
一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。
1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職し、この頃のことは後に『春』で描かれる。

1896年(明治29年)9月8日 、東北学院の教師となって宮城県仙台市に1年間ほど赴任。同年10月25日に母の死に直面し、当時住んでいた広瀬川を見下ろす崖上の支倉町の住居で詩作を始め、仙台駅近くの三浦屋に移って第一詩集『若菜集』を執筆、これを発表して文壇に登場した。

1899年(明治32年) 小諸義塾の英語教師として長野県北佐久郡小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。
北海道函館区(現函館市)出身の秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。
この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
『破戒』を執筆し始めたのもこの頃からであり、同作の登場人物である市村代議士は、岩村田町(現在の佐久市岩村田)の立川雲平をモデルにしたとされる。

1905年(明治38年) 小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。
すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。
ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。
1907年(明治40年)「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。
1908年(明治41年)『春』を発表。
1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。
このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。
1913年(大正2年)5月末、神戸港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にマルセイユ着、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。
第一の「仏蘭西だより」を朝日新聞社に連載、「桜の実の熟する時」の執筆を開始、下宿の世話した河上肇などと交流した。
 

東の野に炎の立つ見えて

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月13日(金)13時21分32秒
  「東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ」  柿本人麿

軽皇子の狩の時の歌
一夜明かした朝の歌

日並皇子(草壁皇子)のことを偲び
軽皇子(のちの文武天皇)をこれから昇る太陽にたとえているのだろうか

http://akahiro.at.webry.info/200903/article_21.html

http://akahiro.at.webry.info/200903/article_21.html
 

啄木と小樽・札幌

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月11日(水)17時37分20秒
  小樽啄木会編 啄木と小樽・札幌  みやま書房  昭和51年

 岡田 健蔵(1883年〈明治16年〉8月15日 - 1944年〈昭和19年〉12月21日)
殊に日記の一部を筆写したと云ふ人物は金田一京助博士が正確な啄木年表を作成したいからと云ふ理由で,丁重な紹介状を付けて,函館図書館を訪問させたので,直接資料以外を書写させぬ条件の下に閲覧を許したのでありますから、吾々南部人の血を享けた者は絶対に盗写など云ふ不徳なことはしないと思ひます。
随って吉田孤羊氏が言はるる所の啄木の日記と称する真偽保証の出来ざるものを堂々と出版せらるる出版社があったとしても、それは私の関知した処ではありません。
   これを読むと、岡田の親は岩手県人か。


   啄木雑記 油川鐘太郎
 いつぽんの杭にしるせる友が名の、それ
 も消ゆるか、潮風の中に

 荒磯のかなしき友が墓の杭、このま
 ま朽ちてあとなかれかし
       (土岐 緑の地平)

 あたらしい墓碑の建設には、当時の海峡詩社の同人たちもそれほど本腰には力を入れなかったと思ふ。その頃の空気は、だんだんと啄木の名がたかまり、それを利用して名蹟にしやうとするやうな一部の考へ方へ、多難、不遇の生涯に終わった詩人へ愧(は)ぢる思ひが、積極的にさせなかったのである。
 生前に、なにかと粗略に扱った人たちが、その名声が高くなると、その知己を誇り顔に出しゃばって来るのに、いささかな反感もあったであろう。土岐さんの歌には、その心持をもつたへているやうに思はれる。だが、そんなものは昔がたりになってしまったし、今ではみんな立派な墓碑ができてよかったと思っているだろう。
 

脱北者の手記

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月11日(水)08時00分5秒
編集済
    張仁淑:凍れる河を超えて

     最近マスコミで北朝鮮のことが毎日のように取りあげられるせいか
    図書館に今話題の本として
    北朝鮮関係の本が並んでいます。
      (図書館も世の流れに敏感。そうでないと生き残れない)

    この本は2000年6月に単行本として出版されたものを
    改めて2003年3月に文庫本として出されたのです。


    努力する娘時代の著者は、ねたみとか祖父の知日家というレッテルのせいで
    上役たちにこの上ないいじわるをされ続けたが
    それをかばってくれた立派な男と結婚する。(大地の子みたい)

    しかし、彼は腎臓が弱く、子どもは恐らくできないだろうと言われた。
    覚悟して結婚した著者たち夫婦は、それでも子どもが授かり
    苦労して4人の息子を育てる。

    夫は政府の苛酷なノルマのせいで,過労死となる。
    彼はあくまでも、北朝鮮政府と人民のために奉仕続けた末の結果だった。

    それから、著者たちは苛酷な運命が待っていた。
    辺地に転居されられ,苛酷な労働、拙悪な生活環境におとされる。

    このままいたらもう一家全員が死んでしまうと覚悟した著者は
    息子たちの説得を受け入れ、決死の脱出をするのだった。


    あとがきで
    訳者 辺 真一 が述べているが、
    これまでの多くの亡命者の手記は物足りなさを感じたが
    それは、断片的、部分的で、北朝鮮という国家の全体像が見えてこないからであった。

    この本は一人の女性が、娘時代から(苦労して大学を卒業し、一流の技術者となりながら、)母となって、
    子どもたちと決死の脱出までを、
    政府の理想や政策に踊らされたり、権力者たちのエゴで振り回されたり弾圧され苦労してきた庶民の目線から書いているから、
    本当の姿が読み取れると述べている。


1963.7.1  入党審査党細胞総会  入党テストの日
  おそらく著者は大学3年生

橋梁架設学科には60名の党員 彼らの前で口頭で党員資格について審査を受けた。
半分以上が1年生  人民具、工場、企業所出身者で,既に党員となり,その後、大学に入学してきた人たちがかなりいた。
学年は著者より下だが、年令はみな5,6歳年上。

彼らは著者に質問を浴びせようと,手ぐすねひいて待ち構えていた。
 なせ党員になりたいのか、どんな覚悟をもっているのか、党政策についての質問がもっとも難問

人を困らせるための質問としか思えない意地悪な質問
「党中央の35名の政治局員の名前を順序通り言え」
質問者のほうは,新聞に掲載されているリストを見ている。それと照らし合わせて著者の答えをチェックするのだ。

すらすらとあげていった著者は、1名の名前を答え損ねた。万事休すか。
そのとき,審査会の進行役を務める1年生の細胞委員長チョン・スンソンが
助け船をだす。
「このような質問は,本来は控えようではありませんか」と審査員一同に言い
著者には「きみは慌てないでゆっくり答えなさい」と気持ちを落ち着かせた。

このあと、学校からの帰り道、審査会の時に助け船を出してくれたチョン・スンソンが,党員のあるべき姿についてさまざまなことを聞かせてくれた。
「君ならきっと優秀な党員になれるよ」と心から祝ってくれた。

  チョン・スンソンが彼女の夫となる。

引き続き、大学党委員会を経て地区党に行って、さらに個別審査を受けねばならない。
地区担当の党指導員もやはり2時間かけて政治、経済、軍事、文化など各分野にわたり質問を浴びせてきた。

後日談として、一人の指導員が
「あれほど長時間の質問をし、質問攻めにしたのは初めてだった。でも、結局彼女に負けてしまったなあ」と、著者のことを話したという。

この審査の中で
父の妹の夫が
「人民軍で宗派行動を黙認した人物であるから、それを念頭において、きみは階級的な立場を堅く守り抜くように」とクギをさされた。

それまで一度も会ったことない叔母の夫が、なぜここに出てくるのだろう。しかも、彼その人が宗派活動をしたというのならまだしも,他人の宗派活動を黙認したというだけなのに。

  宗派(分派)行動


何か一つでも問題になりそうなことを探して、とりあげ、責める。そういう社会なのか。

マルクスも下層階級から上位にのぼりたくて、階級闘争をとたあげたのだろうか。
つまり自分本位。  自分のための哲学 歴史観  万人に通用する真理ではなく、自分の都合のため



 

ルポ 希望の人びと

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 9日(月)12時18分32秒
編集済
  生井久美子:ルポ 希望の人びと  朝日新聞出版

この3年間彼女を担当して、ゆっくりしているが進行している。疲れやすくなったり,ストレスを感じやすくなった、だが洞察力がある。クリスティーンは今も自分の状態がわかっている。だから恐ろしいと思う。

彼女はアルツハイマー病ではないと疑う医者もいるが、自分がこれまで知っている型にはまらないから違う、というのはおかしい。でも、これはよくあることです。

医者に限らず、「世の中こういうものだ」と自分の思っている四角い枠に収まらない人がいるとそれがおかしいと言う。
医者としては患者さんから毎日学んでいかなくてはいけない。これ以上学ぶことがないと思ったら失敗です。

・レストランで食べたいものがわからない。大勢で行くと、比較的ものの分かる人がそれぞれに魚か肉かと聞いてから注文する。ところが出てたた料理が誰の頼んだものかわからない。
・バスに乗れない。一人で目的地に行かれない。幻覚が見える。


ディメンシア
dementia  痴呆  ラテン語 madness=dement, out of one's mind

dement  理性を奪う、発狂させる、狂わせる

demented  痴呆症にかかった,気が狂った、狂気の

 ディメンテッド・ピープル(呆けた人)ではなくて、ピープル・ウィズ・ディテメンシア(認知症のある人)と呼んでほしい。


私の名前がもう書けません。書き順もわからず。...これは突きつめない。苦しむ必要ですもん。
物を置き忘れ、計算はできない。できないことが増え、自分の持っていた物がだんだんなくなるような不安。

「でも、へこんでてもしかたない。話すことなら、自分の思いを届けることならまだできる。できることを前向きにやれたらハリが出る。」
「できないことをやって落ち込むよりも、できることを見つけてやる方がズッといい。」

テレビに出て講演をする太田さん
京都でもおばあさんが手を離さないで「頑張ってくださいね、よかったよかった」って涙うるうる

太田さんは講演で語る。
「私たちを,扱わないでほしい、物のようにね。一生懸命生きたい気持ちをいっぱいもっている、そんなふうに見てほしい」

200人のヘルパーや医師たちが聴き入る、「あーしろ、こーしろと言わないで、できることを奪わないで」
 (認知症だけでなく、体が不自由な人も同じ思い)


ENABLE US(イネブル アス)
残された能力を最大限引き出し、その人らしく生きることを可能にしてくれること
・私たちこそが専門家。私たち当事者ぬきで決めないで
・共感し、苦をともにしてください。支援と理解を必要としています
・懸命に生きる私たちに寄り添って,応援してください

記憶の補助アイテムは有効。
外出したいけれど知らないところへ行くのはとても大変だ。
「携帯電話を使ってみたら?」

「記憶はなくても、記録が残せる」
ICレコーダー、タブレット端末、iPad

すぐメモして記録しておき、認知症の弱点を補う人もいる。

「こんなに話せるんだから,認知症じゃないでしょ」
時には面と向かって、それも専門医からだ。落ち込んで,起き上がれなくなったこともある。

「長年、認知症の支援者としてかかわってきた人でも、自分が認知症になると公表しない人もいるもんね。偏見は自分のなかにあるんだよね。社会にもあるけど」

「テレビ局の取材をうけたとき、「認知症らしくないから撮り直し」って言われてね。道に迷ったりウロウロしたりしているところを撮影したいって...。「フザケルナッ」って、怒ったんだよね」
  (こんなメディアの報道を信ずる?  メディアの薄さ、いいかげんさはある)
 

宅配がなくなる日

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 7日(土)17時10分11秒
編集済
  松岡真宏・山手剛人(著)
 宅配がなくなる日 同時性解消の社会論   日本経済新聞出版社

宅配ボックスや宅配受取所を日本中くまなく設置し、利用者が都合の良い時間に取りに行く。

  人のいないボックスから取りだしたばかりでは,寂しくないか。対面して手渡されたほうが沢山メリットがあるのではないか。



    動く人・動かない人 格差マトリックス
          P
          |
  ファーブル人間 | ネオ・エリート
 (閉じた獲得情報)|
X------------------Y
          |
 ひきこもり型人間 | 伝統的エリート
          | (新しい出会い求めず)
          Q

P モビリティが高い
Q モビリティが低い
X コミュニケーション能力や社会性が低い
Y コミュニケーション能力や社会性が高い
 

赤いネコ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 5日(木)19時36分44秒
編集済
    鉄腕アトム  赤いネコ
http://tezukaosamu.net/jp/mushi/201112/column.html


井の頭公園  平山修次郎  フトオアゲハ


http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-bungei/wforum.cgi?no=7941&reno=no&oya=7941&mode=msgview
 

人生の選択

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 3日(火)18時00分1秒
編集済
  曽野綾子:人生の選択  海竜社

著者の本の「まえがき」だけ集めた本



闇があってこそ、光が見えるのである。

いかなる画家も、陰なしに光を描くことはできない。文学も同様である。人間の悪を正視しない限り、人間の奥行きの深さや偉大さを、見ることも書くこともできない。その意味で,悪を正視するという作業は,私にとって人間を描くための基本的な仕事になりそうであった。

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「私日記」の連載は初めは気持ちよく仕事が進んでいたのだが、「サンデー毎日」の編集長の交代があってから空気も変わったのだろう。一九九八年五月十九日の部分は、どうしても載せられない、ということで、連載は中止された。

私は一九五四年から小説を書いてきているのだが、戦後の新聞が言論の自由を守ったなどというのは全くの嘘だということを体験として言うことができる。今またひとつ、ここに実例ができただけのことだ。

中国に関するいかなる批判もいけない、という姿勢は今から二十年前くらいまでははっきりと続いていた。産経新聞を除く全国紙から私が「干されて」いた期間はけっこう長い間だった。その間、社会主義に非人間的な匂いを感じていた私のような作家をどうにか書かせつづけてくれたのは、文藝春秋や新潮社などの、雑誌社系の出版物だった。

中国報道の偏向は突然止(や)まったが、その後も続いたのは差別語ないしは差別に関することがらに対する極端な「自粛」という名の圧迫である。

作家はいいことだけ書くのではない。私のように残る人生の時間を、「悪人」や、世間が「悪だという事柄」を書くことに当てたいと決心している作家は、そんなことを言われたら、文字(文学ではない)を書くことができなくなる。作家は悪魔を書く必要もあるのだ。

ただ私は、興味で悪を書くのではない。印象派の技法で言えば、光そのものを描くことはできないから、深い闇を描くことで、光を描きたいのである。

この日記は、言わば棄てられた日記である。一時私は自費出版することを考え、知人の編集者に「お宅で、五百部刷って頂いたらいくらかかります? お金を用意しなければなりませんから」と真剣に聞いていた。

作家が何を書こうと、署名原稿である以上、内容の責任は作者にある、という当然のことさえ認識できなくなった小心な出版人が多くなった中で、海竜社は「原稿の内容は、すべて書いた人の責任である」という快い冷静な関係を堅持された。感謝の極みである。したがって今後も私の気力体力が続く限り、平成史の小さな部分を書き下ろしで書き続け、「海竜社」から出して頂くことになっている。

「サンデー毎日」が中断された後、私のところに「どういう原稿が拒否されたのか」という何人かからの問い合わせがあった。この本が出ると,私はやっとその報告もできるようになる。この日記の最後の章の、五月十九日の部分がそれである。載せられなくて当然と思う人と、こんな程度のものが載らないのかと思われる人と、どちらも自由に考えていただきたい。

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時には見え透いた嘘をついても自分の責任を逃れようとする。嘘はその瞬間の厳しさを逃れるためだし、さぼるのは何とか息切れせずに生涯を終えるためである。その卑怯さを自分にも他人にも許さないと、最終的に生きていけない。

「ほどほど」とは、それがかなりうまく行った場合の、むしろ褒め言葉だと思う。卑怯さも、バランス感覚も,諦めも,思い上がりも,謙虚さも、すべて中庸を得ていない、と、「ほどほど」にはならない。「ほどほど」は凡庸さの結果ではあるが,実は意外にも、凡庸ほどむずかしいことはない。だから「ほどほど」にうまく振る舞える人を、私をも含めてめったにいないのだ。

だから、人間は死ぬ時、ただ一言「ゴメンナサイ」と言って別れを告げたらいいのだろう、と思う。「ほどほど」に生きたら、どこかで必ず悪いことをしているのだし,人は自分の「ほどほど」には寛大でも、他人の「ほどほど」には厳しいものかもしれないからである。
 

狐狸庵うちあけばなし

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月25日(月)06時06分25秒
編集済
  狐狸庵うちあけばなし

「もうひとつの軽井沢」のお話


友人の別荘で集まったとき、手伝いに来ていたおばさんがお酒によってしてくれた話
戦時中、軽井沢に外国人が強制的に集められた。
そのおばさんが娘だったが、憲兵隊に命令されて、某大使館の軽井沢の疎開先にメイドとして送り込まれた。
最初は書類を盗み出せということで、掃除のたびに書類を和服の帯の間にはさんで盗みだし、憲兵隊に渡していた。
そのうち憲兵隊からヒ素の入った瓶を渡され、これで中の人を殺せと命令された。
それをスープの中に毎日少しずつ入れて、おばさんの言葉を借りれば「一週間でグッタリ死んじゃったよ」と言う。
「私はお国のためというから、そういうことをしたけど、戦争が終わってからは何も報酬をくれんし..」と酒を飲みながらブツブツ言うおばさん。

そんな話を聞いた著者は、おばさんの切ってくれたスイカは怖くて一口も食べられなかった。

軽井沢は、夏かすぎ秋口になると雨がジトジト降る日が続いて、耐えがたいほどの寂しさが辺りに漂う。
もとの三笠ホテルの辺りで、有島武郎が恋人と一緒に自殺したって話が、実にふさわしいというか,本当に自殺したくなるような、一種陰惨な雰囲気に包まれる。

秋口に仕事をしようとして軽井沢の小屋にひとりこもった著者は、窓や壁の辺りで、コオロギの大きいやつが共食いしたり、人のいなくなった別荘の戸が風に鳴ってギシギシ音を立てているのを見て、ものすごく寂しくなりいたたまれない気がして、二日といられず、あわてて東京へ帰って行った。

秋や冬の軽井沢は辛い寂しい所なのだ。


「乞食を一回やったら...」のお話

上野で浮浪者から話を聞いた著者は、自分も世間のしがらみからのがれ、あらゆる拘束速から自由になってみたいと思うのだ。

彼らは自分のことを乞食ではない、浮浪者だという。  今ならホームレスだ。
酒場に行くと、残った酒や食べ物が手に入る。 着る物も靴もみんな捨てられたものの再利用。
 

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